時代の変わるのは良いことも、よくないこともあって 対応が むずかしいと思うこの頃です。
子供を育てるのにも 時代に沿って したいところも 伝統にのっとってしたいところもあるし。
でも 子供の環境が 危険にさらされるなら 考えなくてはならないし。
自分としては 子育て終えれて良かったと思ってしまいます。
私たちの子育てのころは まだ 挨拶を奨励できていた時代でした。
家のご近所の方とかでも あったら 挨拶するように注意したものです。
そうでなくとも 何かしていただいたら ありがとうとか ごめんなさいとか 。
今は 外で 知らない大人には 挨拶しないというようにしているようです。
知っている大人でも 危ない人いますから、わかる気もしますが なんとも殺伐としています。
そもそも 挨拶は 知らない者同士が あったときに 自分に敵意がないことを
相手に伝える方法として できたのではないでしょうか。
知らない人と親しくなって あぶないので 挨拶しないという習慣は 大人になったときに どうなってしまうのか。
知らないうちは 相手を無視したりするのですかね。
コミュニケイトの最初の手段である 挨拶が なくてもよいという環境で育ってしまったら 新しい場面での対処が むずかしくなりそうです。
私などは 逆に いえのなかでの 挨拶は 軽くしてもいいと思います。
もう、知っている人ばかりなんだから 逆に いきなり会話に入ってもいいのではないかと思います。
”いってきます”とか”行っていらっしゃい”とか”いただきます”とかは 必要と思いますが。
”ただいま”や”おかえり”は 共稼ぎのおたくでは場面自体、へっていますしね。
自分も子供のころは なんだか大きな声で おはようというのが 気恥ずかしいこともありましたし、天気いいねとか軽い会話が 好きだったせいか 家族とは あまり そういう挨拶をしない 子どもでした。
でも なぜか うちのネアカな子供たちは こっちが 返すまで ”おはよう!”というくらいのひとたちで 外でも 挨拶しまくっていたようです。
やはり あぶない人がいるからと あいさつしないのではなく 誰かと顔があったら、あいさつするのが 印象もよくお互いにへいわなかんじですよね。
クルーズ船に乗ると 西洋系の乗客は よく 挨拶を交わします。
顔見知りでなくとも 通りすがりのスタッフでも ウェイターでも エレベーターで乗り合わせた方とでも 軽く挨拶すると雰囲気が和みます。
日本人は 働く人に声をかけたり お礼を言ったりすることが すくなく 不愛想な印象を受けます。
子供を連れて歩く場面で おやが ちゃんと あちこちで 声をかけたり挨拶したりして見せることは だいじな 教育です。
ちょっとにっこりして ”Thank you”とか”ありがとう”とか いう習慣をつけることをお勧めします。
スーパーのレジだって ”ありがとう”とか ”お世話様”とひとこといえば 感じよいではないですか。
レストランのサービスにだって お金を払った客だからと こえもかけないで いるより ここでも にっこり”ありがとう”というべきです。
こういうところから 差別的意識が 生まれたりするのです。
日本は ある意味隠れた レイシズムが 蔓延しているところがあります。
職業的差別もありますし、経済差別もそのほかいろいろなところで じぶんとちがうところを 差別したがるところが多いです。
でも 相手も立場を考えるように子供に 教えていくことで 防げることもあると思います。
コミュニケイトの 最初は 挨拶です。
形を変えて 軽い会話でも大きくなればいいでしょうし、他人を受け入れないように教え込んでしまうと あと どうなるか しんぱいですね。
おとなでも 差別的な人は たくさんいますが だからといって 良いことではない。
人類が このまま 社会を営んでいくうえで こどもに きちんとコミュニケイトする技術を教えるのは 重要事項です。
40歳過ぎても であってこんにちはと声をかけて ”あー、うー”と すぐこんにちはを返せない大人も知り合いにいます。
本人の切り替えも 必要でしょうが やはり 世界中にいる自分以外に 自分は 敵意を持っていないと知らせる 手だてをすぐ出せるような おとなに育てたなければと おもいませんか。
じつに おとなになって あうひとのほとんどは みんな 最初は 知らない人なのですから。
当たり前のようで 再認識しなければならないことです。