勇気は出るもの出せるもの―感動はするもの湧き上がるもの

”勇気は出るものだせるもの” 私が卒業した学校で よく 読まされていた 創立者のかいた 本があって その中の題の一つです。

小中学校くらいの年齢の子供向けに 童話の中に 教訓のようなことを いれて 書いてあったものですが、 言葉の拍子がよくて けっこう 記憶にのこって

時々に出てくるのです。

最近の テレビや 新聞などの報道や インタビュー等で

”感動をもらった”とか ”勇気をもらった”とか 発言する人が とても 多いとおもいます。

なんだか 言葉まで デフレーションになって 要るように感じていますがどうでしょう。

だれかが 何かすばらしい行いや スポーツのパフォーマンスをして それを見たり聞いたりしたら 感動すればいいのです。

何故 もらわなければならないのか。

または 勇気などは 勇気を出すとか もしくは 誰かに影響されたなら 勇気づけられるのでは ないでしょうか。

勇気や感動をもらうということが いつも 違和感のある なにか みみっちいというか 安っぽい感じがするのです。

いつから 日本人は 高いった場面でなんでも もらいたがるようになったのでしょうか。

自分から 感動も勇気もわいてこないのか、それとも 控えめにして もらいたいとでもいうのでしょうか。

だれかのおかげで 感動や勇気が得られたとしたら それは  もらったのではなく そういう経験をさせていただいたから 感動もでき、また勇気もでて それをさせてくれたひとなどへ お礼をするのならわかります。

日本語としておかしいかどうかは わかりませんが とても気になります。

もらうという いいかただと 感動するや勇気が出るということが 自分の感情なのに 自分の中に 責任が発生しないふうで なんともいえない 自主性のなさを感じます。

これが、日本の独特のあいまいさにも つながっているのかもしれません。

丁寧に いう言い方の させていただいたが させてもらったになって それから 変わって 感動とかももらえる感じになったかもしれませんね。

させていただくというのは 明らかに 自分がするので 自主的な感じ。

していただくにしても 自分が相手にしてほしいので 自分の責任で してほしいと ちょっと強めに頼む感じになるので この 頂くが変化したのなら 使い方が違うようにも 思えます。

自分の勇気や感動は もらわずに すっきり 自分の心から出してほしい。

そういうことって もらったり、あげたりしないで したりさせたりするほうが 聞いてて心地よいと わたしは 思います。

ことばは 変化しているといつも言われていますので 古いものに こだわるたわごとと 思われる方も いらっしゃったら もうしわけありませんが

やたら こういうことが 気になるもので 見過ごせないのです。

バスや電車でも ”ご利用できます”と書かれると 気になります。

”ご利用”なら なれますだし ”利用”なら できますだなと おもいつつ 通り過ぎています。

毎日 考えもせずに 話したり読んだりしているようで 何かの形が 自分の中にくみこまれていて 反応してしまうのだと思います。

ことばとは面白いものです。

 


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